※本記事の一部はAIを活用して作成しています。
はじめに
『ゴジラ-0.0』のポスターに大きく書かれていた、
「人類の罪と罰。もう、無(ゼロ)には戻れない。」
というキャッチコピー。
映画を観る前は「またゴジラが現れることが人類への罰なのかな?」くらいに思っていましたが、本編を観ると、もっといろいろな意味が重なっているように感じました。
原爆で家族を失い、ゴジラをアメリカへの復讐に利用しようとする村上教授。典子を「人間兵器」にしかねない共鳴波増幅装置、怪獣同士を戦わせる八幡作戦、そして最後にはゴジラとその関係者を「保全」しようとする米国側。
さらに青山は八幡作戦について、「その罪深さを考えてしまいます」という趣旨の言葉まで口にします。
では、『ゴジラ-0.0』が描いた「人類の罪」とは何だったのでしょうか。そして「もうゼロには戻れない」とは、何を意味していたのでしょうか。
この記事では、映画の内容と山崎貴監督が語っているタイトルの意味を踏まえながら考察します。
※ここから『ゴジラ-0.0』の重大なネタバレを含みます。
ゴジラ-1.0「人類の罪と罰」は公式キャッチコピー
まず、「人類の罪と罰。もう、無(ゼロ)には戻れない。」は『ゴジラ-0.0』で実際に使われている公式のキャッチコピーです。
公開前の特報でも「人間のやって良いことの範疇を超えている」というセリフが使われており、最初から今作には「人間はどこまで強大な力を利用していいのか」というテーマが置かれていたことが分かります。
ただし、現時点で山崎貴監督が「人類の罪とは○○、罰とは○○です」と一つの正解を明言しているわけではありません。
そのため、ここからは映画の中で何度も繰り返される「人間が力を利用する」という構図から考えていきます。
人類の「罪」① 戦争と原爆
まず最も分かりやすいのが、戦争と原爆です。
前作『ゴジラ-1.0』から、このシリーズには第二次世界大戦の傷が色濃く残っています。敷島は元特攻隊員であり、「国のために死ぬこと」を求められた過去を抱えています。
そして『ゴジラ-0.0』で新たに登場した村上寛治教授は、広島への原爆投下で家族を失った人物でした。
村上は「ピカ」という言葉を使い、家族の写真を見ながらアメリカへの復讐を誓っています。
戦争は終わっていても、敷島や村上の中では終わっていない。
人類が戦争を起こし、原爆という途方もない力まで実際に使用したことが、この作品の一番根底にある「罪」なのだと思います。
人類の「罪」② 人間を兵器として使うこと
『ゴジラ-0.0』で何度も描かれるのが、人間を目的達成のための「兵器」にしてしまうことです。
敷島は特攻隊員でした。
そして今度は典子が、ゴジラを呼び寄せるために必要な存在になります。
典子の身体にはゴジラ細胞があり、その細胞と村上が開発した共鳴波増幅装置を利用すると、ゴジラを誘導することができます。
敷島が強く警戒したのは、まさにここでした。
ゴジラを呼べる人間だと知られてしまえば、典子は今後も利用される。
敷島は、自分が戦争で「人間兵器」にされた経験があるからこそ、典子まで同じ立場に置かれることを恐れたのではないでしょうか。
人類の「罪」③ ゴジラを兵器として利用すること
人間だけではありません。
今作では、ゴジラそのものを兵器として利用しようとする人間が描かれます。
キングギドラへと進化したギドラを人間だけでは倒せない。
そこで村上教授が思いついたのが、
「ギドラにゴジラをぶつける」
という作戦でした。
ゴジラを共鳴波増幅装置で誘導し、キングギドラと戦わせる。
これは結果的に人類を救う作戦になりますが、冷静に考えると、人間が怪獣を自分たちの武器として利用していることになります。
八幡作戦を青山が「罪深い」と感じた理由
このテーマをかなり直接的に表しているのが、八幡作戦について青山が口にする言葉です。
ゴジラとキングギドラを戦わせ、弱った方を米軍と協力して人間の力で倒す。その作戦について青山は、「その罪深さを考えてしまいます」という趣旨の疑問を野田へ投げかけます。
なぜ怪獣を倒すことが「罪深い」のでしょうか。
おそらく問題なのは、ただ怪獣を殺すことではありません。
人間の都合でゴジラを呼び出し、キングギドラと命懸けで戦わせ、役目が終わったら今度はそのゴジラまで殺す。
つまり、
利用するだけ利用して、最後には処分する。
青山は、そこに人間の身勝手さを感じたのではないでしょうか。
野田は少し考えたあと、
「憂いを断つためです」
と答えます。
「罪深くなんてありません」と否定するのではなく、罪深さを分かったうえで、それでも今後の脅威を残さないためにやる。
野田の答えは、かなり重いものだったと思います。
鳴神作戦も「人間が力を制御できない」象徴?
鳴神作戦も、「人類の罪と罰」を考えるうえで面白い作戦です。
青山は自然の雷を利用してギドラを倒そうとします。
しかしギドラは雷で死ぬどころか、その力を取り込んでキングギドラへ進化してしまいました。
人間が強大な力を利用しようとした結果、さらに大きな脅威を作ってしまう。
これは原爆やゴジラの軍事利用とは直接同じものではありませんが、『ゴジラ-0.0』で繰り返される構図にはよく似ています。
人間は力を手に入れれば、それを使おうとする。
けれど、その結果まで完全に支配することはできない。
キングギドラ誕生は、その怖さを怪獣映画として分かりやすく見せた場面にも見えます。
村上教授も「被害者」から「加害者」になろうとしていた
「人類の罪」を最も複雑に体現している人物が、村上教授かもしれません。
村上は原爆で家族を失った被害者です。
しかしその村上は、ゴジラを使ってアメリカへ復讐することを考えていました。
映画では、ゴジラがアメリカの街を襲い、自由の女神まで破壊する映像が登場します。
現実ではなく村上の想像ですが、彼がどんな復讐を思い描いていたのかが分かります。
原爆によって家族を奪われた人間が、今度はゴジラという圧倒的な力を使い、無関係な人々まで巻き込む側になろうとしていた。
被害者だった人間が、復讐によって次の加害者になる。
野田が止めようとしたのは、この連鎖だったのではないでしょうか。
「使わず、使わせず」が人類の罪への答え?
野田は村上に、強大な力を復讐に使うのではなく、
「使わず、使わせず」
多くの命をつなぐことこそ、本当の復讐ではないかという趣旨で説得します。
そして、
「私たちで終わりにしませんか」
と語りかけます。
ここは『ゴジラ-0.0』のテーマを考えるうえで、かなり重要な場面だと思います。
強い力を手に入れたら、敵に使う。
敵がそれを持てば、さらに強い力を作る。
その繰り返しを続ければ、いつまでも終わりません。
だから野田は、「もっと強い力を手に入れる」ことではなく、自分たちのところで使うことをやめる道を示したのではないでしょうか。
村上は最後に研究を燃やす
村上はその場では野田の言葉を拒絶します。
しかし最後には、野田の言葉を受け入れます。
村上は自分の研究資料を燃やし、共鳴波増幅装置やゴジラを利用するための研究を米国側へ渡さない道を選びました。
つまり村上は、
「ゴジラを使って復讐する」
という自分の考えを捨てるだけではなく、
「誰にもゴジラを使わせない」
ことを選びます。
復讐を実行することではなく、復讐や軍事利用につながる技術を自分のところで断ち切る。
ここでようやく野田の「私たちで終わりにしませんか」という言葉につながります。
それでも米国側はゴジラを「保全」しようとする
ところが、物語はそれほど簡単には終わりません。
キングギドラとの戦いが終わると、米国側からゴジラとその関係者を「保全」するよう指示が出ます。
なぜ方針が突然変わったのか、作中では明確に説明されません。
ただ、今回の作戦によって典子と共鳴波増幅装置を使えばゴジラを誘導できることが分かっています。
そのため、米国側がゴジラに何らかの利用価値を見いだしたのではないか、と考えることはできます。
村上が自分の復讐のために利用しようとしたゴジラを、今度は別の人間が利用しようとする。
一人が手放しても、人類全体が同じ誘惑を手放したわけではない。
ここが「もうゼロには戻れない」という言葉につながっているように感じます。
「罰」はゴジラそのものなのか?
では「人類の罰」とは何なのでしょうか。
最も単純に考えれば、ゴジラそのものを「罰」と見ることもできます。
人類が戦争や核兵器という巨大な力を生み出した結果として、ゴジラというさらに巨大な存在に脅かされる。
初代『ゴジラ』から続くテーマとも重なります。
ただ、『ゴジラ-0.0』では「ゴジラ=神様が人類へ与えた罰」という単純な構造にはなっていないと思います。
むしろ、強大な力を使った結果として、さらに新しい問題を生み続けてしまうことそのものが「罰」なのではないでしょうか。
ゴジラを倒しても再生する。
ギドラを雷で倒そうとすればキングギドラになる。
ゴジラを利用する方法を発見すれば、今度はその方法を軍事利用しようとする者が現れる。
一度知ってしまった力を、完全に「知らなかった世界」へ戻すことはできません。
「もうゼロには戻れない」とは?
ここでタイトルの『ゴジラ-0.0』にもつながります。
前作『ゴジラ-1.0』では、戦争で「ゼロ」になった日本を、ゴジラがさらに「マイナス1」へ突き落とすという意味がタイトルに込められていました。
一方、『ゴジラ-0.0』について山崎貴監督は、ゼロにマイナスを付けることで「ゼロへ向かっていく力」のようなものを表したと説明しています。
そして大きな意味として挙げているのが、敷島たち家族の、
「せめて普通の暮らしをしたい」
という願いです。
つまり『-0.0』は、完全なゼロではありません。
マイナスの世界から、なんとかゼロへ戻ろうとしている途中です。
なぜ「ゼロに戻った」ではなく「ゼロには戻れない」なのか
ここが面白いところです。
敷島、典子、明子は生き残りました。
前作よりも家族としての絆は強くなっています。
それだけを見れば、マイナスからゼロへ近づいているようにも見えます。
しかし世界は、もう以前と同じではありません。
ゴジラは存在している。
典子の身体にはゴジラ細胞がある。
人間はゴジラを誘導する方法を知ってしまった。
そして、その力を利用しようとする人間もいる。
起きてしまったことを「なかったこと」にはできない。
だから、
「もう、無(ゼロ)には戻れない。」
なのではないでしょうか。
戻れないけれど「ゼロを目指す」ことはできる
ただ、『ゴジラ-0.0』は絶望だけで終わる映画ではありません。
村上は復讐をやめます。
野田は「私たちで終わりにしませんか」と訴えます。
敷島と典子は明子を連れ、3人で生きることを選びます。
過去を消すことはできない。
完全なゼロにも戻れない。
それでも、
これ以上マイナスへ進まないようにすることはできる。
そして少しずつゼロへ近づいていくこともできる。
山崎監督がタイトルについて語った「ゼロへ向かっていく力」という言葉を考えると、『ゴジラ-0.0』にはそんな希望も込められているように思います。
人類の罪は「力」そのものではない?
個人的には、この映画が「強い力を持つこと自体が罪」と言っているわけではないと思います。
問題なのは、
その力を何のために使うのか。
村上は復讐のためにゴジラを使おうとしました。
人類はキングギドラを倒すためにゴジラを使います。
そして米国側は、そのゴジラを今度は保全しようとします。
同じ力でも、使う人間によって意味が変わる。
だからこそ野田の「使わず、使わせず」という言葉が重く響きます。
『ゴジラ-0.0』のロゴにも意味がある?
『ゴジラ-0.0』では、タイトルロゴについてもさまざまな考察が出ています。
特に「G」の形が、手を合わせて祈っている女性の姿に見えるという説や、キングギドラの姿・頭部にも見えるという声があります。
実際、映画の中には明子が祈る印象的な場面もあるため、「祈る人」に見えるという考察と重ねたくなるデザインです。
一方で、現時点では山崎監督が「この部分は祈る女性です」「キングギドラを表しています」と公式に答え合わせをした情報は確認できません。
そのためロゴについては、正解が決まっているというより、観客が自由に意味を見つけて楽しめる部分として考えた方がよさそうです。
「人類の罪と罰」をまとめると
『ゴジラ-0.0』の「人類の罪」は、一つだけではないと思います。
戦争を起こしたこと。
原爆を使用したこと。
人間を兵器として扱ったこと。
強大な怪獣を、自分たちの目的のために利用しようとしたこと。
そして一度手にした力を、また別の誰かが使おうとすること。
それらが何度も繰り返されます。
そして「罰」とは、その結果生まれたゴジラやキングギドラだけではなく、一度起きてしまったことを完全なゼロには戻せない世界そのものなのかもしれません。
だからこそ、この作品の答えは「全部リセットして元に戻す」ではない。
戻れないなら、これ以上同じことを繰り返さない。
「私たちで終わりにする」。
そこに『ゴジラ-0.0』の希望があるのではないでしょうか。
おわりに
『ゴジラ-0.0』の公式コピー、
「人類の罪と罰。もう、無(ゼロ)には戻れない。」
映画では、その意味が一つの答えとして説明されるわけではありません。
しかし戦争、原爆、特攻、村上の復讐、典子の人間兵器化、ゴジラの利用、八幡作戦、そして米国側によるゴジラの保全。
物語を通して何度も描かれているのは、人間が強大な力を手にしたとき、それを利用したくなる危うさでした。
過去は消せない。
ゴジラも消えていない。
完全なゼロには戻れない。
それでも村上が復讐をやめ、敷島たちが家族として生きる道を選んだように、マイナスからゼロへ向かおうとすることはできる。
『ゴジラ-0.0』というタイトルには、絶望だけではなく、そんな「ゼロへ向かう力」も込められているのではないでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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小説版 ゴジラ-1.0
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